今年は10月1日~ 25日オンラインで開催しました。
一部アーカイブは2021年9月30日まで公開します。

東京湾のカタチ
そもそも東京湾って?!
DAIWA

誰もがその名前を知っている東京湾。
どこからどこまでが東京湾なのか、知っていますか?
実は、三浦半島から房総半島にぐるりと囲まれた海が東京湾なのです。しかし、正確に言うと・・・、神奈川県三浦市の剣崎という岬と、千葉県館山市の洲崎という岬を結んだ線の内側が東京湾なのです。
そして、横須賀市の観音崎と千葉県の富津岬という二つの岬を結んだ線の北側(東京寄り)が内湾、その外側(太平洋寄り)が外湾と呼ばれています。外湾は観音崎と富津岬の間の距離はわずか6kmと狭いため、外洋から内湾へ流入する水が少なく潮の流れは穏やか。また、内湾にはさまざまな河川が注ぎ、土砂を運んで堆積しています。一方、外湾には深い海溝があり、同じ東京湾でも内湾と外湾では地形もかなり異なります。

東京湾、どこからどこまでが??
目次

江戸の街づくりと東京湾

※海中に現在の東京湾のおおよその沿岸線と目安となる場所を記載

1.太田道灌の頃の東京湾
現在の東京湾の面積は約1,380km2。しかし、時をさかのほ゛ると東京湾の面積は今よりもっと広大でした。陸地の隆起と沈下を繰り返し、河口部に平地が作られていったのです。まちづくりとともにそのカタチが整い始めたのは室町時代後期。武将・太田道灌(1432~1486年)が江戸城を築城し、江戸湊を発展させていきました。その当時の東京湾は日比谷入江が深く入り込んでいて、現在の皇居の辺りに海岸線があり、商船や漁船が出入りするなど、すでに港湾都市として繁栄を見せていました。

2.埋め立てて拡張した江戸のまち
天正18(1590)年、徳川家康が江戸に入府すると、すぐにまちづくりに着手しました。運河の開削に始まり、土地の埋め立て、町割などが行われ、水に囲まれた世界有数の大都市となっていったのです。文禄元(1592)年頃より、神田山(現在の駿河台)を切り崩して日比谷入江の埋め立てが始まりました。そして、現在の日本橋から新橋辺りまでも埋め立て、江戸のまちが徐々に形作られていったのです。幕藩体制が整うと江戸に人口が集中。宅地や食料供給地を確保するため、隅田川の東側や河口を埋め立て、水路を張り巡らせました。

3.東京を流れる利根川?!
江戸時代のはじめまで関東平野の中央を流れていた利根川。途中で荒川が合流し江戸湊(現・東京湾)に注いでいましたが、江戸は度々の水害に遭っていたため、徳川家康の命令で水系(流れ)を変える大規模な治水事業が行われ、「利根川の東遷、荒川の西遷」と言われています。

<東遷・西遷以前>
世に言う「利根川の東遷、荒川の西遷」が行われる前は利根川に荒川が合流し、現在の隅田川の川筋で江戸湊(現・東京湾)へと注いでいた。
家康は、度重なる洪水や灌漑などのために治水事業を進めるとともに、江戸湊に注ぐ川を整え、船による物資輸送の体系も整備することを目指した。

<東遷・西遷以後>
利根川水系と荒川水系を切り離す大規模治水事業により、利根川は東遷して現在の太平洋に注ぐようになり、西遷した荒川は江戸湊に注ぐようになった。数度にわたる治水事業が繰り返され、舟運が栄え、江戸の町は世界に誇る100万都市に成長する。荒川は明治期以降にも治水事業が行われ、現在に至る。

大きく姿を変えた江戸・東京。今の東京湾の姿に!

東京湾は江戸時代以降、時代の変化に合わせてその姿と役割を変えてきました。そして東京湾は、現在も止まることなく発展を続けています。海の玄関、産業や交通の要としてだけでなく、豊かな漁場や憩いの場として、東京湾は私たちの暮らしに寄り添い続けています。

参考資料

・環境省ホームページ
・国土交通省ホームページ
・国土交通省関東地方整備局荒川上流河川事務所ホームページ
・国土交通省関東地方整備局東京港湾事務所ホームページ「東京港の歴史」
・関東農政局ホームページ
・葛西臨海たんけん隊東京湾の生きもの「Fact Sheet」
・江戸深川資料館資料館ノート
・東京都臨海域における埋立地造成の歴史
・「江戸の川東京の川」鈴木理生著井上書院
・「江戸はこうして作られた」鈴木理生著筑摩書房
・「海の日本史江戸湾」石村智、谷口榮、蒲生眞紗雄著洋泉社
・「東京湾の地形・地質と水」貝塚爽平編築地書館

各種お問い合わせは

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原稿/吉田渓 イラスト/益田宏樹

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